海が近い街で暮らしたい、そう思うようになったのはいつ頃からだっただろうか。思い返せないくらいに、私の心にずっといたような気がする。
私は大学進学の際に上京し、東京から近い海に縁ができた。
初めて鎌倉の街を訪れたとき、「前世は鎌倉の武士だったわ。」と言い出すくらいに、由比ヶ浜や小町通りにシンパシーを感じた。(後に大阪城を訪れた際、武士の圧倒的パワーを思い知り、それは図々しい話だったと自ら反省することになるのだが。)
初めて山下公園を歩いたとき、気軽に海を散歩できる生活はさぞかし素敵だろうと、タワーマンションを見上げた。この貴品溢れる感じには、特にシンパシーは感じなかった。想像でさえも分をわきまえてしまう悲しい性分だ。
それから社会人になり、職場を起点とした街に住んだ。結局交通の便が良いところで、海は近くない。
その後転職をし、次のオフィスは渋谷になった。もっと海から遠くなったけれど、当時は“海街暮らし“は憧れで、手の届かない存在だとも思っていたので、特別悔いはなかった。
だが、憧れる心は燻り続けていたようだ。アフターコロナに我が社もリモートワークを取り入れるようになったのを機に、ついに動いた。
ずっと憧れだった逗子鎌倉エリアから藤沢エリアまで、街ごとの特徴や通勤経路など住環境の調査に明け暮れた。
悩みに悩んだ結果、終の住処は茅ヶ崎だと心が決まった。サザンが私を呼んだ(気がした)。
それから物件が決まるまでは半年かかった。そもそも母数が少ないのと、私のような移住民が増えている頃だったので、問い合わせたタイミングで既に埋まっているという人気ぶりだったのだ。この争奪戦に、一生住めないのかもしれないと本気で思った。
諦めかけたときに、運命の出会いがあった。
これは逃すまいと、破竹の勢いで入居申込まで進めた。そこまで漕ぎ着けたら、心は立派な茅ヶ崎市民になっていた。その時はまだ茅ヶ崎には数回しか行ったことがなかったし、実際に住むまで2ヶ月あった。それでも心は茅ヶ崎に引っ越し済みだったし、もう茅ヶ崎から出ることはないと思っていた。
ここまで(自分で)ハードルを上げた茅ヶ崎ライフだったが、すごいのはその期待をいとも簡単に上回ってきたことだ。朗らかに陽気に日々の暮らしを楽しんでいる感じが、とてつもなく私の心を魅了した。
憧れが憧れのまま自分のモノになってしまった。