🏝出雲大社と稲佐の浜の話。

出雲大社の稲佐の浜 エッセイ

出雲大社に行くことになったので、旅行雑誌を読んで情報を仕入れていると、近くに「稲佐の浜」と呼ばれる名所があることがわかった。砂浜に「弁天島」という神様をお迎えする場所とされる大きな岩があり、海を司る神様が祀られているそうだ。

出雲大社も海に近いなんて知らなかったので、これは運命かもと思うくらいにときめいた。

稲佐の浜に向かうまでの街並みは、古くから暮らしを大切にしてきたことが伝わるような、ほっこりする海街で素敵だった。そんな純朴さを感じる道を歩いていたからか、「稲佐の浜」の知識をしっかりとつけてからお参りしたくなった。

レトロな街並が素敵

道中、「カツオのトロトロカレー」というのぼりに吸い込まれるように入店したご飯屋さんで、Google先生に尋ねた。すると、“稲佐の浜の砂“と“出雲大社の素鵞社にお供えされている砂“を交換して持ち帰る慣習があり、その砂が幸運を運ぶと言われているという興味深い話を教えてくれた。

なかなかこられる場所ではないし、海を愛する者としてはぜひ行わせていただきたい。

ただ1つ問題があった。稲佐の浜から出雲大社までは1.5kmある。付け焼き刃の知識であるから、もちろんそれ用の準備は何もない。そう、どのように運ぶかという初手の問題に突き当たった。ビニール袋をどこかで調達しようとしたが、すでに稲佐の浜は目前で、辺りにコンビニはなかった。残された手段は、“素手“一択だ。

ただしここは天下の出雲大社様、観光客は大勢来ている。そんな中、砂を手に持って歩くのは恥ずかしいだろう。しかもここまでの間に、手に砂を持っている人は見かけなかった。諦めたくなった。が、これをしないと後悔する。そんな意地なのかよくわからない感情が私を奮い立たせた。

穏やかな波と柔らかな砂浜(稲佐の浜)

奮い立ったこっちのものだ。むしろ自分の手と足を使って運ぶなんて、ご利益がアップするのではないか?という気さえしてくる。しかも不安定な手で運ぶということは、最後まで砂をどれくらいの量残せるかわからない、失敗してもオイシイのではないか?と無駄な芸人魂までうずいてきた。

ということで、私の挑戦は始まった。

砂を手ですくう。この瞬間に悟った。これは海水を含んでいて、しっかりと持ちやすいぞ、と。その予感は的中した。道中、なんの不安感もなく私の手の中に砂は収まっていた。風が吹こうが、自分で走って風を起こそうが、びくともしない。

撮れ高が少なくなりそうだが仕方ない。撮れ高を欲しがった下心が神様にバレてしまったか、ここからは神聖な気持ちだけで歩を進めた。

しっとりとした砂で手に密着している

出雲大社に近づくにつれ、すれ違う人が増えてきた。なるべく他の人の目に映らないように、平然とした顔で歩き続ける。

鳥居をくぐり、出雲大社の荘厳さに圧倒された。周りが記念写真を撮っている横を、しれっと通り過ぎてひたすら「素鵞社」を目指す。一番奥にそこはあり、途中で白無垢姿の花嫁さんとすれ違った。まさか結婚式で砂を手に持つ女が横切るとは思わなかったことだろう。この光景はシュールだと、思わず第三者の目線に立つ自分がいた。

厳かな雰囲気、素手どころか他に砂を運ぶ人すら見かけなかった

そんなこんなでゴールが近づいたところ、係員の方が何か呼びかけているのが聞こえてきた。
まさか、砂をそのまま手に持っているから怒られた!?と怯えたが、「あと少しで閉門するので急いでください」という催促だった。ほっと胸を撫で下ろしながらも、それはそれで焦る。たどり着けなかったらさすがに笑えない。恥じらいも捨てて走った。安定感ある砂で良かったと、あの時の下心を再び恥じた。

安定感ある砂とアラサー本気のダッシュのおかげで、無事砂の交換を終えた。

こんなにも長時間シュールな思いをすることは、今後の人生でもうないかもしれない。それが残念なのかいいのかわからないが、私の心に深く刻まれた出来事であることは間違いない。

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